羊たちの沈黙の小説には菊池光(1989年)、高見浩(2012年上下巻分割版)の二種類が存在する
菊池光氏の旧版は当時大量に発刊され、今でもブックオフなどで安価に購入できる。ただし電子書籍はない
高見浩氏の翻訳版は電子書籍版が発刊されてkindleなどで手軽に読める。セールで買ってみたので呼んだのだが、これが微妙だったので菊池光氏の翻訳版が電子書籍ないかと探してしまった(存在しない)
私の感想では、二つの翻訳を比較すると、菊池光氏の旧版は簡潔かつ的確な文体で、洗練されている印象を受ける
一方高見浩氏の新版は冗長かつ最近の言い回しを使っていて、不適格かつダサイ印象を受けた。
まあその辺は個人の好き嫌いによるだろうが、高見浩氏の新版は文章の翻訳としてもいくつか不適格な箇所を見つけた
両方の翻訳本とも文章量が膨大で、旧版は電子書籍版がないので、比較が困難だができる限り指摘する
ゴリ押し
新訳版下巻299ページ
「ジャックは性転換手術クリニックへの働きかけを継続すると言ってるんだが、どの程度ゴリ押しできるものか。」
ゴリ押しという単語自体普段聞かない単語で、ネットスラングだと思われたので、違和感があった
一応国語辞典には昔から存在する言葉らしいが、ごり押しよりも強行のほうが的確で雰囲気に会っているように思える。元々ジャック・クロフォードは作中でも頭のきれる人物なので、安易な手段を使わないだろう
女性のことをオマンコ
新訳版下巻502ページ。クラリスの回想で「女性をただ"オマンコ"と呼ぶ低能な男がいるように~」
さすがにあのクラリスは回想でもオマンコなんて言わないだろうしびっくりした。現代言葉に傾倒しすぎて主人公のキャラを損ねている。旧訳版は「カント(性器)」と訳していたと思うが、こっちのほうがイメージ損ねない
最後のレクターの手紙
小説の最後のエピローグシーンで、事件解決して絶頂のクラリス充てに逃亡中のレクターの手紙が届く。その内容を抜粋
旧版
「子羊たちの悲鳴は今のところは止むだろう。
しかし、クラリス、きみはトリ―ヴの土牢の秤のような非情さで自分を判断すべきだ。
きみはそのありがたい沈黙を何度も何度も自分の努力でかちとらなければならない。
きみは人の苦しみを見てその苦しみに駆り立てられているが、世の苦しみは永久に絶えることがないからだ」
新版
「子羊たちはしばらくの間鳴き止むだろう。
しかし、クラリス、きみはスリーブ城塞の秤の慈悲をもって自分を律したほうが良い。
祝福すべき沈黙を、きみは何度も何度も自力でかちえなければならない。
なぜなら、きみは人の苦難をみて、その苦難に駆り立てられるのだが、苦難は永劫に消えることはないからだ」
まず新版「子羊たちはしばらくの間鳴き止むだろう」は間違い。原文にはなんて書いてあるかわからんが、羊は普段鳴く動物なのだ。元々クラリスが駆り立てられたのは、羊の普段の鳴き声ではなく、悲鳴だった
次は興味深く、二つの訳文で正反対の訳を充てている
「トリ―ヴの土牢の秤のような非情さで自分を判断すべきだ」
「スリーブ城塞の秤の慈悲をもって自分を律したほうが良い」
トリ―ヴだが、スリーブの秤はグーグルで検索しても何も出てこない。ただし秤を引用するあたり、「機械的な」や「私情が入る余地がない」、という意味だと予想する。新版は秤が「慈悲深い」といっているが、さすがにおかしい気がする。そんな秤あるか
実は質問サイトで回答されていたが、「クラリス、きみはあのスリーヴ城の地下牢における正義の裁きのような峻烈さで、自分を律しがちの人間なんだ」。と高見浩氏が訳している。私はこの訳が意味的には正解で、クラリスが正義に傾倒しすぎている(クラリスは正義感の強い、いかにも主人公らしいタイプ)ことを指摘していると思う
次に新版は「祝福すべき沈黙を」と訳しているが、これもかなり違和感がある。沈黙に対して祝福とか賛美すべきとか大層な扱いをしているが、「ありがたい」とか「貴重な沈黙」とか、その程度のニュアンスが妥当ではないか?
次に「人の苦難をみて」と新版は訳しているが、これも違和感がある。苦難とは仕事や努力の困難や苦労などに使う言葉。クラリスはバッファロウビルの被害者の女性たちの虐殺をみて、駆り立てられた。被害者の女性の境遇は苦難という生易しいものではなく、虐殺や拷問であって、これを苦難と表現するのはおかしい
最後「苦難は永劫に消えることはないからだ」と訳しているが、これも旧版の「絶えることがない」が正しい。今まで苦しみは続いてきたし、続いていくだろう、という意味では、「絶えることがない」が正確。「消える」でも意味は伝わるが、突然世界から消えてなくなるものだと思われてしまう。
なお上げたのは一部で、高見浩氏訳版には他にも微妙とかダサイくて雰囲気を損ねる場面がある。ただし間違っているというほどとは思えないし、二つの訳の羊たちの沈黙を読んでいないと、違和感を感じないだろう
だがamazonなどで、菊池光氏の訳版は劣っていると評されており、旧訳版の電子書籍化はありえない。個人的にはムカツク限り。菊池光氏訳版はレクター博士がすごい子供っぽい言い方するところが好きなんだが