努力というのは現代人たちにとって祈りの代替である
努力しろというが、何を努力するのか、どれだけ努力するのか、どれぐらい利益をもたらすか定かでない。
それなのに、努力はいつかかならず報われるという。
祈り続けることが大事。神を信じるものは報われる。そういった宗教と何がちがうんだろうか
努力は極最近うまれた歴史の浅い概念
努力の台頭というのは、過去の努力など無駄な時代から社会が変わったためである
歴史上の昔の社会は、完全なカースト社会で、生まれで性別でほとんど身分が決まっていた
まだ科学の発展していない世界では、努力して解決しようにも、学問がなく勉強できることが無い
人々は迷信を信じており、進歩的な考えや発想は奇異と迫害の対象でもある
そして病気や災害について解明されておらず、どれだけ努力しようが、病気や怪我で命を落とすような世界だった
つまり努力というのは極最近生まれた概念であり、普遍的ものではない
努力は不平等である
現代人たちから見れば、無意味な祈りより、努力して問題を解決すべきだと思うだろう
至極全うだが、努力が苦しむ人間に救いをもたらすかというと微妙だろう
努力の効果というのは若さと社会的地位に比例する
年齢の若い人間ほど、努力によって、職歴や資格が評価され、生涯年収が増加する。
対照的に、高年齢となると体力と暗記力が落ちてしまうため、スキルの取得は難しいし、
とったところで年齢がネックとなり、会社からあまり評価されない
残りの人生年数から言って、生涯年収の増加は少なくなるだろう
つまり努力の重荷が増大するうえに、その見返りも小さくなってしまうのだ
さらに努力は地位にも影響される。たとえば非正規の人間より、正規の人間の努力のほうが報酬が大きい
結論をいうと、努力は若い人間、それも地位の高い人間ほど報われるが、
年老いた人間、社会的地位の低い人間にはあまり報われない
後者は社会的弱者であり、救いを求める人間たちである
しかし努力はもっとも苦しむ彼らを救ってはくれないのだ
社会は努力の重要さばかりを説くが、自分を救ってくれないものを果たして信じるだろうか?
努力では救ってもらえないなら、何に救いを求めればいいのだろう