2018年3月1日 空調設備管理を三か月で首になってから次の派遣先
空調の設備管理を首になってから、本社の研修を一か月ほど受けた。研修ははっきり言ってダメ社員たちを食わせるためで、役に立たない座学を受けるために朝早く出社しないといけない。
すぐに新しい派遣先を見つけないと本社も赤字なので、せかされているのがひしひしと感じる
茨木の石油プラントの施工管理の仕事を打診された。短期の出張で、アパートが用意されている。若い社員は東京から出たくないので、人気がないようだが自分はめちゃくちゃ行きたかった。都会から抜け出して地方で一人暮らししてみたかったのだ
このために荷物を大量にまとめて、ノートパソコンを購入した。三か月出張なので鞄二つも大量の荷物を持って運んだ
まず千葉県まで長距離バスに乗って事前研修を受けに行った。二時間も長距離バスに乗るのは初めての経験で、アクアラインを走行するのは観光を楽しんでいるようだった。アクアラインは全然別世界で、高速で走る長距離バスから眺める水平線がなんと居心地が良いことか
千葉県の人通りの少ない駅前の事務所で当たり障りのない研修を受けた。本当に内容は覚えてないが、石油プラントに可燃物や携帯を一切もちこんではならない、という内容だったかな?事務所の二階から、海に流れる大きな川の緩やかな流れの、のどかな景色が一望できた
その近辺のビジネスホテルに一泊した。飯は近辺の松屋の牛丼セットを食べたと思う。ビジネスホテルに止まるのは本当に久々だが、狭い室内とペラペラの布団、充実したアニメティ。浅い西洋式の浴槽と浴衣は新鮮で居心地がよかった
次の早朝パン屋で出来立ての塩パンを買って、アニメティのコーヒーと一緒に味わった。客室のテーブルから朝の青暗い街並みを見下ろしながら。パン屋に太った女性が、出来立ての塩パンを我先に買い込んでいたのが記憶に残っている
営業から若い派遣が一人派遣をキャンセルしたと知らせられた。大言はできないが脚立のような高所に上るのが苦手だったらしい
そのあと電車で東京まで生き、次いで長距離バスに乗って茨木まで移動した。私は長距離バスの大きな窓から外の景色をみるのに夢中だった。森だらけ山だらけで、大きな畑が広がる。
山の中に農家の民家がぽつぽつと点在しており、あの人里離れた暮らしに憧れがあった。商業施設もないし、夜は真っ暗闇になる。どういう生活なのかまるで想像できない
高速をおりて茨木に到着すると、あたりは畑と林とぽつぽつと民家がある。高い建物がなく、地平線まで見えそうだった。地平線まで見えるやたら直線距離の長い、広い道路を走行して、一階建ての民宿に宿泊した。背の低い建物ばかりで、とにかく空地の面積が広い
その民宿から何日か巨大な石油プラントに、派遣全員バスに揺られて通勤した。石油プラントはとにかく広大で、どのエリアにいるのか番号を覚えないといけない。
我々派遣先の事務所がもうけられている場所が仕事場になる。石油プラントは4年に一度の大規模改修検査の時期で、ほかにも大勢の建設会社や施工業者が集められている。プラント内に各社のプレハブの事務所がいくつもあるのだ
私の仕事は肉厚検査と呼ばれるパイプの消耗検査を調べる仕事。の専門の資格をもった検査員の補助業務だった。検査員がパイプにグリスを塗って、ペンみたいな器具で触診検査を行うので、その数値をプリントに記帳するだけである
仕事は休憩時間も多く、給料も多いので一番良い仕事だった。だが一番きついのはタワーと呼ばれる石油プラントの鉄塔に上らなければならないことだ。
自分は作業服と静電気防止安全靴、安全帯を装備して、タワーに供えられた短い梯子を順番に上って、検査員とともに頂上を目指す。安全帯は不自由なもので、安全靴は重くて機敏な動作ができない。それで転倒して、足をねんざして三日休みを余儀なくされたのだが
タワーはまるで牢屋のように本当に細かく落下防止の鉄柵と足場が設けられ、細いパイプと太いパイプがあちこちを走っている。梯子を上るときは常に、鉄柵やパイプに安全帯のフックをかけてから上る必要がある。安全帯のフックは鈍器になりそうなほど大きくて重みがある
タワーは最も高いもので40~50メートルの高さがある。上るのも一苦労だし、高所すぎて本当に怖い。強風が吹き、タワーの頂上付近の足場が揺られていることを実感できるほどだ。自分は高いところ苦手ではないが、あの高さになると、専門の慣れた作業員でないと、恐ろしすぎて身動きが取れなくなるほどだ。風の音もすさまじく、大声を上げないとお互いの数値の点呼が確認できない
頂上からは石油プラントの周囲にある建物や林、海岸の水平線まで一望できた。あまりにも景色が良いので写真を取りたかったが、スマホは持ち込めない
民宿の宿泊は一週間ほど続いた。揚げ物と刺身のボリューム満点すぎる充実した夕食と、熱い湯の共同浴場がいかにも日本の民宿だった。飯も炊飯器から自由にお代わりできるが、ガス焚きで本当にうまかった。
朝の食事もいかにも民宿で、ご飯に納豆とみそ汁、焼き鮭、卵焼き、5枚一組のプラ容器の海苔とヤクルト、オレンジがついてる。量が多すぎたので、昼飯に取っておいた。
日本の地方の民宿は本当に独特なところがあり、平たい家屋に広い引き戸の玄関、障子で区切られた畳部屋が一望できる。木製のガラス張りの食器棚が必ずあり、ビーズを吊り下げた暖簾で食堂が仕切られている。父親の群馬の実家もそうだったが、ものすごい強烈なノスタルジーを感じる
石油プラント付近の民宿は繁忙期で、ほかの会社の作業員の予約が殺到しており、たこ部屋になっている業者もいるらしかった
そのあと茨木の古い団地のような四階建てのアパートに移動した。家賃三万にしてはとにかく広くて部屋数も多い。ファミリーでも十分暮らせるほどだ。無料のwifiも備えてある。アパートは鉄骨造の立派な団地アパートだが、エレベーターがないので四階まで階段を上らないとならない
なんとなくおぼえているが、夜間はあたりに人気がなさ過ぎて怖いのだ。ふと窓を見るとお化けが張り付いているような想像をしてしまう。夜中にカーテンを空けるのすら怖い。わざわざほかの部屋の電気をつけて眠っていた。
このアパートは二人一組にルームシェアで住む規定になっていた。ほかの派遣は仲良し同士でうまく共同生活していたらしい。部屋が広すぎたので、ほとんどお互いに気を使わなくても暮らせるのだが。
私のルームシェアの相方は、ガチの自閉症らしき30代半ばの男性だった。人見知りが激しく、うつむきがちの子供がそのまま中年になったような容貌をしている。最低限のコミニケーションすら危うい。これで施工管理が勤まるんだろうかと思ったが、障碍者枠なんだろうなと思った。
これについては私は運が良かった。ヤンキーが相部屋だと威圧され自分のテリトリーが脅かされるからだ。ただその相方はすぐに嫌いになった。洗濯道具や調理器具を共同で使おうと提案したところ、「嫌、別にいいです。」「結構です」と常に拒否されたからだ。気が弱く小心者だから、人の提案は常に遠慮しているようだ
極めつけは、連休に実家に帰省しないで派遣先の仕事を受けようと提案したところ、拒否されたことだ。自分の提案をきっぱり拒否したくせに、後日私と同じように仕事をするためアパートに残っていた。私は蒸し返さないように一緒に雑用をこなした
近くにすごく立派で巨大な食料スーパーがあって、総菜と弁当が安いうえに内容も充実していた。地方のスーパーじゃないとあんなにコスパの良い弁当は食えないだろうな思う
石油プラントでの仕事はあまりなく、私を含め派遣はいつも椅子に座って暇していた。なんで派遣が必要だというと、この肉厚検査の作業は二人一組の決まりになっている。現場作業は基本的に二人一組で、相方が熱中症や転倒した場合、相方が知らせて助ける規定になっている。肉厚測定自体は専門の資格持ちが必要だが、その相方の筆記はなんの資格もいらない雑用要因である
赴任先の茨木は総じてのどかな場所で、都内か神奈川の過密地帯しか暮らしたことがない自分にとっては、旅行にきたような気分だった
仕事についてはやはり無能で、派遣先も20代の若い派遣を特別扱いして、唾をつけておきたいようだった。社員候補としてマークしてるんだろうなと想像した
その若い派遣の一人に虚言症がいた。見た目はいまどきだが、常に自分の自慢話のような雑談ばかりしている。今のところ、本当の虚言症を見たのは最初で最後だ。その若者に面と向かって「あなたって本当に仕事できないですよね。ほかの職人の方から全員文句言ってますよ」と言われたことを覚えている。
ものすごいムカついたが、気弱に黙っていた。余計な騒ぎを起こしてもなんの得にもならないので、この判断で正解だったと確信している
派遣は3カ月くらいで終わった。寒い四月から、7月の陽気に変わっていた。朝早く荷物をまとめて、茨木から東京の長距離バスにのって、各自自由に帰宅した。
早朝の長距離バスは快適で、自由で、のどかな景色が堪能できた。給料もらいながら旅行に来たような気分だった。結局施工管理を二年間勤めて、一番いい思い出が、その帰りの長距離バスで景色を眺めていたことだ
ふと模範的な社会人の仕事中の、最高の思い出とはなんだろうなと思った。少なくとも一人で長距離バスに乗った時間を上げるやつなんて俺以外にいないだろう