私はヤコブの手紙を感銘を受けてから、昔からたまに詩を書いていた。がどれも出来は今一つで、微妙で公開してなかった

昨日ようやく納得できるクオリティの自作詩が書けたので公開する

人間の心は徳に惹かれるようにできている
いくら知能が高い動物と言えど、徳に惹かれることはない
機械は人間より知能をもつが、徳に惹かれることはない
徳に惹かれるのは人間だけである
徳に惹かれない人間は、機械でできた心を持つものである

兄弟たちよ、世を友とする者に惹かれてはならない
彼らは賢く富んでいるが、徳に惹かれる心を持たない
その者に惹かれるのは、富や名声に惹かれることと同じである

思い出せ。
救い主は持たざる人であったが、その知恵と徳によって
貧しき者をお救いになられたではなかったか

詩のタイトルはいまいちよいものが思い浮かばないので、なしのままになっている。実は私のサイトで公開している詩は、ヤコブの手紙も含め詩のタイトルがないものばかりなので、これが正しいのかもしれない

この詩は文体は古いが、バリバリの現代詩で、現代にならないと成り立たない詩になっている。

まず知能というのは最近の検知なので、聖書の時代では絶対に存在しない。次に機械というのは、そのものズバリAIの事である。

今時は人間よりAIの方が賢い時代なのだ。そして世には優れた人間が存在し、社会のカーストの上位を占めている。

高い給料を得て、ホワイトな仕事に従事するリモートワーカーやYoutuber達こそ、最高の頭脳と名声の持ち主たちであろう

本当に頭がいいし、高い給料を得て、誰からも好かれている。ただし私はそういった人々を尊敬する気がなぜか起きない。

すごく頭がいいということは、善人を装うことがうまいのだ。それゆえ、本当に善人や義人というべき人間か見ぬくことができない

そしてすごく頭がいいからと言って尊敬に値するか?大金を稼いでいるようだが、それだけの富を与えて、ちゃんと社会のために役立っている人間なのか

こいつらは単に運がいいだけなんじゃないか?生まれが恵まれていたからエリートのレールに乗れただけではないか?

あえていうが、貧しい人々は絶対に富むものを心から敬ったりしない。金や地位に順従なのであって、それを持つ人間自身には、逆に不満や妬みの邪な感情を持っているものだ

私は性悪説の持ち主なので、人間なんて富と地位を失えば何の価値もないとさえ思っている。それを失えば誰からも尊敬されないし冷たくあしらわれる。

結局人間が同じ人間をちやほやするのは、金や若さに目がくらんでいるだけだ

しかしあえてその人間の心に価値をつけるとすれば、それは今まで積み重ねてきた徳しかない。

徳とはいったい何だろう?おそらく乱世や三国志の時代に、とっくに滅びてしまった概念であろう。説明がきわめて難しいが、それについてはおいおい語れるようになるかもしれない

今更”徳”という化石のような言葉を持ち出したのは、私が懐古のおっさんだからではない。高度な情報化社会だからこそ、徳というものを思い知らされるような気がしてならないからだ。

いまはなんでもネットで検索できるので、そいつの日頃の行いというやつは調べることができてしまう